レプリソーム旅行記 ランダムギャラリー8

北上
時は、NBAファイナルが始まる直前の2012年6月。
今回は、仕入れの都合で、ワシントンD.C.からスタートし、その北に所在するボルチモアを経由して、更に北上します。
その道中で、目にした物をご紹介します。

ボルチモア
ワシントンD.C.から北へ行くと、ボルチモア市へ入ります。
D.C.に近いだけあって、フィラデルフィアと同じく、アメリカ合衆国の成り立ちに大きく関与しています。

ボルチモアは、1830年から1850年代まで、2番目に人口の多い都市であり、国歌や星条旗がこの地で生まれました。
また、港も有名で、優れた漁港であると同時に、造船や貿易港としての機能を発揮して、街を発展させてきました。

ちなみにL.A.クリッパーズの語源である、「Clipper(帆船)」ですが、その帆船が最初に作られたのは、このボルチモアと言われています。
画像は、米英戦争で使われた戦艦です(大砲が見えます)。当時の物を改修して現在まで、保存されてきました。

ボルチモア都心部
1960年代以降、不況によりボルチモアの治安が悪くなっていくことになりますが、都心部や郊外の雰囲気からは、ビルや街の大きさの割りに、人が少ないように感じはするものの、悪い印象はあまり見受けられません(下町は、ちょっと柄が良くないのですが、身の危険を感じるほど治安に問題は感じませんが・・・)。

ボルチモア郊外
郊外には画像のような、小洒落たレストランや建物、広いお庭の住宅街があります。

ブレッツからウィザーズへ
NBAファンにとってのボルチモアといえば、現ウィザーズの前身、ボルチモア・ブレッツが所在した土地、ではないでしょうか。

実のところ、ボルチモアはブレッツ発祥の地ではあるのですが、チームの起源は1961年のシカゴ・パッカーズというチームから始まります。
翌年、シカゴ・ゼファーズと名前を変え、その後、ボルチモアへの移転を機に、更に名前を変えてブレッツとなりました。

その後、ワシントンD.C.に移転して、ワシントン・ブレッツとなり、チームのイメージを変える目的からも、ワシントン・ウィザーズになりました。

ブレッツ × ウィザーズ ?
2011-12シーズンから、ロゴもジャージも変わりました。
ロゴのデザインは、ジョーダン選手が在籍していた当時と変わりませんが、そのカラーリングやジャージのデザインは、当時のブレッツを思わせる物へと変わりました。
一時期、HWCでジョーダン選手も着用したモデルとよく似ています。

ジョージタウン大学へ
ところ変わって、画像はジョージタウン大学近隣の町並みです。
洒落た若者向けの建物が立ち並んでいます。

東京都心部に似ている?
画像の地図の通り、ジョージタウン大学を含むワシントンD.C.は、湾に分断されているだけでなく、道路も東京都心部並みに入り組んでいます。

また、道路の混雑具合も東京都心部と似ており、上の画像の道路は夕方になると、大渋滞が発生します。

学内へ
画像は、ジョージタウン大学のメディカルセンター前の駐車場そばの道路です。

車を停めて、学内に入ろうと思います。

ホール
ホールを通ってジョージタウン大学の Hall of Fame へ向かいます。
時に、
 ノースカロライナ大学・ターヒールズ
 DUKE大学・ブルーデビルズ
 ミシガン州立大学・スパルタンズ
のように、各大学のアスレチックチームには名前がありますが、ジョージタウン大学のチーム名が、なぜホヤス(Hoyas)なのでしょうか。

なぜホヤス?
 チーム名の他に、ジョージタウン大学の学生全体も意味するホヤス(Hoyas)。
いきなり冒頭から残念ですが、ターヒールズやブルーデビルズのように、なぜホヤスと命名されたのか、についての明確なエピソード等はわかっていません。
そんな中、チーム名について大学とその関連機関が公認しているいくつかの点と、起源に関する諸説をご紹介します。

<大学とその関連機関の公認事象>
 まだ、ジョージタウン大学でギリシャ語とラテン語が必修だった当時、同大学のチームは、ストーンウォールス(Stonewalls)と呼ばれていました。
ある日、学生達から、ギリシャ語やラテン語を使った応援が提案され、チームは「 Hoya Saxa (英語訳:What Rock) 」と応援されるようになります。
やがてその名前は、ジョージタウン大学を取材するライター達が引用するなどして、次第に浸透していき、ジョージタウン大学全チームに使われるようになりました。

以上は、大学が公認している事象ですが、ホヤスの起源については以下のような諸説があります。

<大学内外の諸説>
・大学所在地が、川にそっていることから、 Hoya は航海用語の「ahoy(おーい)」から派生した言葉である。
・チームの競技場が、37番通りにそった大学の壁に面しているため、チーム名ではなく環境を表現した言葉である。
・ saxa が何年間も壁に書かれており、似たようなフレーズがベースボールチームのファンによって広められた。
・法律関係者は、裁判の始まりに伝統的に使われているフランス語の「 oyez ( hear me: 聞け、静粛に) 」に関連している言葉である。
・インディアンの言葉である。

ギリシア語の「What」を意味する Hoya と、ラテン語の「Rock」を意味する Saxa とが組み合わされて誕生した、Hoya Saxa。
その起源と、なぜチーム名になった経緯については、明確にされてはいませんが、いつしかチーム名としても定着し、今も尚、応援の掛け声として愛用されています。

ジョージタウン大学の Hall of Fame
ジョージタウン大学で特に活躍した学生に贈られる、ジョージタウン大の Hall of Fame。
画像の通り、正式には
 The Georgetown University Athletic Hall of Fame
という名称で通っています。

画像は、この賞を受賞した選手やコーチらを各種目ごとに展覧した部屋です。

中には
入室すると、大学のロゴを配したグレー&ネイビーの絨毯が続いており、壁には各競技種目ごとに、プラーク(盾)がかけられています。

アニメータ内で拡大されたプラークは、男子バスケットボールの物です。

男子バスケットボール
こちらが、男子バスケットボールのプラークです。
プレー中の様子を彫刻したプラークの下には、ブロンズでできたネームプレートが多数貼られています。

これに、ジョージタウン大学の Hall of Fame に選ばれた選手達の名前と卒業年が書かれています。
詳しくは、下表の通りです。

ジョージタウン大学 男子バスケットボールの Hall of Famer
アンドリュー F. ザッザリ 1922年 C. ドナルド ダットン 1930年 フレッド M. メスマー 1930年
ポール J. ディロン 1932年 ジョン J. クローリー 1933年 エドワード J. ハーガデン 1935年
トーマス J. キャロラン 1936年 ドナルド C. ギビュー 1937年 ベン G. ゾーラ 1937年
ハリー バッシン 1938年 トマース C. ノーラン 1938年 フランシス D. オグラディ 1942年
アンドリュー コステッカ 1944年 ウィリアム J ハセット 1945年 ジョン E. マーンケン 1945年
ダニエル・クラウス 1948年 レイモンド C. コーリー 1950年 リチャード T. ファルベイ 1950年
トーマス V. オキーフ 1950年 ウィリアム J. ボルガー 1953年 ジョセフ V. ミゼット 1957年
ブライアン P. シーハン 1961年 ジェイムス M. クリスティ 1964年 ジェイムス J. バリー 1966年
ジェイムス R. ブラウン 1966年 チャールズ A. アドリオン 1970年 F. マイケル ローナ 1972年
デリック V. ジャクソン 1978年 ジョン T. デュレン 1980年 エリック A. フロイド 1982年
パトリック A. ユーイング 1985年 レジナルド・ウィリアムス 1987年 アロンゾ・モーニング 1992年
ジョージタウン大学
男子バスケットボール Hall of Famer
アンドリュー F. ザッザリ
1922年
C. ドナルド ダットン
1930年
フレッド M. メスマー
1930年
ポール J. ディロン
1932年
ジョン J. クローリー
1933年
エドワード J. ハーガデン
1935年
トーマス J. キャロラン
1936年
ドナルド C. ギビュー
1937年
ベン G. ゾーラ
1937年
ハリー バッシン
1938年
トマース C. ノーラン
1938年
フランシス D. オグラディ
1942年
アンドリュー コステッカ
1944年
ウィリアム J ハセット
1945年
ジョン E. マーンケン
1945年
ダニエル・クラウス
1948年
レイモンド C. コーリー
1950年
リチャード T. ファルベイ
1950年
トーマス V. オキーフ
1950年
ウィリアム J. ボルガー
1953年
ジョセフ V. ミゼット
1957年
ブライアン P. シーハン
1961年
ジェイムス M. クリスティ
1964年
ジェイムス J. バリー
1966年
ジェイムス R. ブラウン
1966年
チャールズ A. アドリオン
1970年
F. マイケル ローナ
1972年
デリック V. ジャクソン
1978年
ジョン T. デュレン
1980年
エリック A. フロイド
1982年
パトリック A. ユーイング
1985年
レジナルド・ウィリアムス
1987年
アロンゾ・モーニング
1992年
 

ブルー & グレー
旅行記の、半ば変な恒例となりつつありますが・・・ジョージタウン大学の男性トイレです。
他の大学と同じく、アスレティックチームのカラーリングである、ホワイト × ネイビー × グレー のタイルが壁に敷き詰めらています。

この3色、特にグレーとブルーとが、どうしてチームカラーとなったのかをご紹介します。

ブルーとグレー
 ノースカロライナ大学のスカイブルーとホワイト、デューク大学のブルーとホワイトなど、多くのNCAAの大学は、自分達を象徴するカラーリングを保持し、その対となる色としてホワイトであることが多いですが、2012年現在でジョージタウン大学が公式のカラーリングとして認めているのは、ブルーとグレーです(2012年現在。80年代半ばまでは、ホームカラーとしてホワイトを採用)。
「大学に象徴的なカラーリングが必要」と、導入のきっかけとなったのは、ボートクラブが「自分達を応援してくれる人に、他チームとの見分けがつきやすくするため」と言い出したためでした。
ただ、この2色の組み合わせが選ばれた理由には、歴史的な意味が含まれています。

 ジョージタウン大学(Gerorgetown University)が、まだジョージタウン・カレッジだった頃、アメリカ本国では、奴隷制度廃止の合衆国(北部)と存続派の連合国(南部)とが対立し、南北戦争が勃発しました。1861年のことです。
この影響で、ジョージタウン・カレッジ学内の学生や卒業生らは、北と南に分かれて戦争に身を投じることとなり、のべ1141名の学生・卒業生が参戦したとされています。1861年から1865年にかけて、313名いた学生は17名までに減ってしまい、一時、大学は閉鎖状況にまで追い込まれました。

 終戦後の1876年に、上記の通り、ボートクラブが大学のカラーリングを決める委員会を発足させ、戦争終結のお祝いと、
  合衆国のブルーの制服、連合国のグレーの制服に身を包んで戦った学生・卒業生らに敬意を表するため
  学内の北・南の学生らの中に存在する団結感を表現するのにふさわしい

という理由から、ブルーとグレーが選ばれました。

後日談として、この2色が決まってすぐに、Visitation Academy の女性達から、半分がグレーもう半分がブルー、そして Ocior Euro (風よりも速く)の文字が刺繍されたバナーが寄贈されました。

なぜブルドッグ ?
 画像は、ジョージタウン大学のマスコットとして、グッズにもプリント・刺繍されている、お馴染みのブルドッグです。ジャックという名前がついています。

ブルドッグ(Bulldog)はつづりの通り、Bull(雄牛) Dog(犬)、雄牛の犬。1度噛み付いたら、雄牛が倒れるまで噛み付いたまま離れない、強靭なアゴと、粘り強い性格の犬種と言われています。

ジョージタウン大学のアスリート達が、ブルドッグように粘り強い活躍を見せることから、強く・粘り強い象徴として、ブルドッグがマスコットとなりました

このマスコットの名前が、ジャック(Jack)という名前になった理由ですが、1962年当時の学生達は、過去の犬と同様に(下記)、チーム名である Hoya と名づけたかったものの、すでに Lil-Nan's Royal Jacket という名前がついた2歳の犬だったためか、ジャックという名前以外に頑なに反応を示さず、これがマスコットの名前が、ジャックとなった始まりです。

ブルドッグになった経緯
 実は、ジョージタウン大学のマスコットは、最初からブルドッグではなく、色々な紆余曲折を経て1962年に正式にブルドッグとなります。 その変遷について少し触れたいと思います。

 今から150年近く前、ジョージタウン大学がまだジョージタウンカレッジだった頃、学内のパン屋には数頭の番犬がいました。
ある日、Rough And Ready という名のテリアが、同じく番犬で凶暴なブルドッグの Pompey Gavin とケンカをし、その内容があまりにひどかったことから、学生が起訴状を作成して裁判を起こし、 Pompey Gavin をジョージタウン村へ追放した、という出来事がありました。
この起訴状が現在も、ジョージタウン大学の図書館に残っており、現在のところ、これが大学が長年、犬に馴染みがあること示す記述で最古の物、とされています。

 第一次世界大戦後、軍用犬だった Stubby というボストンブルテリアが、初代マスコットとして、フットボールの試合に起用されました。
負傷兵を発見したり、マスタードガスによる奇襲から味方を守ったりと、大戦中も功績のある犬ですが、ハーフタイム中にフットボールを鼻で押してグラウンドを横切っていくというパフォーマンスで観客を沸かせました。このパフォーマンスは、1920年代・30年代のマスコットの定番となりました。

 次の代もJazz Bo というボストンブルテリアが起用され、この時、初めて公式にチーム名と同じ Hoya の名前につけ直されることとなりました。
Al Philip Kane 氏によると、この頃から学生新聞がチームを、それまでの呼称、「Hilltoppers」、「the Blue and Gray」より「 The Hoyas 」と好んで呼び始めるようになったとあります。

 時代は、第二次世界大戦を迎え、ボストンブルテリアによるマスコットの歴史が途絶えてしまいます。
大戦後、非公式でしたがマスコットとして起用されたのは、陸軍のマスコットだった、Coulson's Hoya という名のグレートデン。
この犬は Butch の愛称で親しまれ、新聞記者に大変人気がありましたが、外部の人間に誘拐されるという経験をしました。

 再びボストンブルテリアがマスコットとなって歴史が再開したのも束の間、今度は1951年にジョージタウン大学がフットボールへの参加をやめてしまったことで、生きた犬によるマスコットが廃止され、人間が犬の着ぐるみに入るマスコットのみという状況が続くことになります。

 その10年後の1962年、学生委員会によって、「生きたマスコットの復活を」が掲げられ、「硬く強い性格」が象徴とされる純系のイングュリッシュ・ブルドッグが、粘り強い自チームにふさわしいとして、公式のマスコットが決定されました。そして、上のマスコットロゴ画像の通り、ブルー×グレーのキャップが着飾る小道具として導入されました。
最初に連れてきたイングリッシュ・ブルドッグに、チーム名と同じ Hoya と名づけたかったものの、このブルドッグは「ジャック」という名にしか反応しませんでした(上述)。これが、現存のブルドッグマスコットが、この名前で通されている起源です。
このジャックは、Holy Cross 大学の人間に誘拐されるというトラブルを経験しながらも、4年間マスコットを務め、1967年に引退し、ジャックU世にマスコットの座を引き渡します。

 が、再び生きたマスコットのいない時代が訪れます。
着ぐるみのマスコットのみの時代、Rocky という新たなブルドッグが加わったり、時折、近隣のブルドッグを借りてきたりと、70〜90年代のほとんどが、生きたマスコットがいない状況でした。

 1999年、シニアクラスの学生達により「Bring Jack Back(ジャックを取り戻せ)」の運動が起こります。
同年の3月に、新しいジャックを迎えることになりました・・・が、喜びも束の間、この4年後、ジャックの世話係をしていた人物が、Scranton 大学の学長となったことで、ジャックも同大学へついて行ってしまったため、生きたマスコットのポジションは再び空席となりました。
そこで、今度は2003年の5月3日生のブルドッグの子犬を新しいジャックとして迎えました。
先代のジャックとは血のつながりはありませんが、このブルドッグは、パトリック・ユーイング選手が大学に在籍していた頃の、ロッキーという犬の血筋を引いています。
引き続き、2012年の4月には、カリフォルニアからジャック Jr. (略して J.J. とも呼ばれます)と名づけられた子犬のブルドッグがやってきました。

 長くなってしまいましたが、以上がジョージタウン大学とマスコットとなった犬たちの歴史、ブルドッグになった由来の概説になります。
詳しくは文末に掲載していますので、ご参照下さい。
DUKE大のブルーデビル、ノースカロライナ大学のターヒールズ、そしてジョージタウン大学のカラーリングと犬達。
いずれも、名前の由来や選ばれた理由に、第一次・二次世界大戦や南北戦争といった社会背景に、強く影響を受けていることが察せられます。

Georgetown Hall of Famer
ここでは、男子バスケットボールの他に、この賞を受賞した各種目の選手やコーチ、関連スタッフをスクロールにてご紹介します。

今回の旅行記は、下記の通り、ジョージタウン大学のマスコットと犬の歴史をお伝えして、お別れしたいと思います。
ジョージタウン大学 Hall of Famer

おまけ
ジョージタウン大学のマスコットと犬の歴史

1800年代
Rough And Ready(テリア)
 大学内のパン屋の番犬の一匹で、1862年4月に同僚犬 Pompey Gavin によって殺傷される。
この件で学生達により、Pompey Gavin を、同僚の犬たちを陪審員にした裁判にかけることが決定され、有罪となった Pompey Gavin は、ジョージタウン村(現ウィスコンシンアベニュー の マクレーン・ガーデンズ団地)へ追放された。
the College Journal によると、Pompey はその後、村を占拠していた連合兵士により毒殺された。
上記裁判の学生による起訴状は、大学の文書館に今でも残っている。
1910年代

20世紀に変わる頃

Hoya(大きな雑種)
 Rev. William Carroll, S.J. 氏によって飼育された。
 フットボールの試合で、相手チームのハーフバックを噛んだことで、メリーランド州チャールズカントリーという街のセントトーマス農場へ追放となった。

Richmond Jack(純系ロシアンウルフハウンド)
 1906年の5月10日生れ、Hoya と同じ世代の犬。
 血統書は文書館に残っているが、マスコットとしての活動や死について、なんの記述も残っていない。
1911年

犬(それ以外のことはわかっていない:ヴァージニア大学文書館に残っている写真より)
 当時のイヤーブックによると、大学のマスコットは「小さな少年」だったが、ヴァージニア大学とのフットボールの試合に招聘され、この試合はブルー&グレイ(当時のジョージタウン大学チームの呼称)が9-0で勝利。
この犬も、歴代イングリッシュブルドッグのマスコットとして数えられている。


第一次世界大戦(1914-18年)後

Stubby(ボストンブルテリア)
 Yale で訓練をしていた102番目の歩兵部隊に加わり、18ヶ月の間、部隊と行動を共にし功績を挙げた軍用犬。
  ・マスタードガスによる奇襲から部隊を守った。
  ・負傷した兵の場所を突き止めた。
  ・直感でドイツのスパイを捕らえた。
 戦争後、J. Robert Conroy 法学部教授のもとへ行き、数学期の間、フットボールチームのマスコットを務め、前後半の間に、フットボールを鼻で押して転がし、フィールドを徘徊するパフォーマンスを見せ、これは、1920年代30年代のジョージタウン大学のマスコットの定番芸となった。
アスレチック部門では、最も初期のマスコットとして認識されている。
1920年代
Hoya 1(ボストンブルテリア)
 ウィスコンシン州のグリーンベイ出身で、本当の名は Jazz Bo。
 Paul Van Laanen 氏によって連れてこられ、Vincent McDonough 師に世話をされた。
 Al Philip Kane 氏によると、この頃から学生新聞がチームを「Hilltoppers」、「the Blue and Gray」より、「 The Hoyas 」と好んで呼び始めるようになった。
1940年代
第二次世界大戦(1939-45年)後

Butch(グレートデン)
 元々、ジョージタウン陸軍トレーニングプログラムグループのマスコットだったが、大学へ招聘され、Coulson's Hoya と名づけられて、非公式のマスコットとなった。
 従順と思われていたらしく、新聞記者に人気があった反面、Fordham から来たとされる若い学生の一団に誘拐され、ジョージタウン大学の学生一団、Neil McShane、Richard Kelley、Tom McHugh、William Blatty(エクソシストの著者)らによって救出された。

1951年
Butch の引退後、ボストン・ブルテリアが再び起用されることになるが、ジョージタウン大学がフットボールへのリーグ参加をやめたことに伴ない、生きた犬のマスコットの歴史が途絶え、人間が中に入る犬の着ぐるみだけとなった(この着ぐるみマスコットの名前は不明)。

1962年
ジャックT(純系イングリッシュ・ブルドッグ)

 学生新聞スポーツ部門の編集者、Stan Samorajczyk と John Feldmann とに率いられた学生委員会による、生きたマスコットの歴史を復活させようの運動と、学生達の主張「ジョージタウン大学のアスリート達はブルドッグのように粘り強い」に合った、純系のイングュリッシュ・ブルドッグがマスコットに決定した。そしてマスコットとロゴに、新入生が1度着用したとされる、ブルー×グレーの帽子が導入された。
が、必要な予算が大学当局に認められなかったため、学生委員会は、ダンス・エキシビジョンのバスケットボール試合・債券の販売・戸別訪問による寄付集めなどをして、お金を工面した(この中でバスケットボールの試合がもっとも収益が低かった)。

 ジャックTの本当の名前は、Lil-Nan's Royal Jacket で、2歳の時にジョージタウン大学へ連れてこられた。
学生達は Hoya と呼びかけたが、全く応じず Jack という名前にだけ反応し、これが現在のマスコットの名前が Jack であることの始まりとなった。
4年間マスコットを務めて1967年に引退し、ジャックU世に後任を譲るが、在任中に Holy Cross 大学の面々に誘拐された経験がある。
ジャックU世 〜 90年代
70年代・80年代・90年代

 ジャック二世の後は、ブルドッグの着ぐるみをまとった学生、Pat Sheehan がマスコットを務め、更に彼の後任として、翌年卒業することになっている Lloyd Williams が選ばれた。
Lloyd 在任中に、Rocky というブルドッグがマスコットに加わるが、着ぐるみマスコットのみだったり、近隣地域のブルドッグを借りたり、と70〜90年代は生きたマスコットが定着することはなかった。

1999年
新しいジャック(ブルドッグ)
 1999年の春に大学へやってきた。
これは、シニアクラスの学生らが行なった「 Bring Jack Back(ジャックを取り戻せ) 」のキャンペーンや、基金調達などによるものである。
が、この犬は、世話係で Hoya の卒業生でもある、当時、英語科の教授 Scott Pilarz S.J. が、Scranton大学の学長になり、一緒に着いていくことになって、2003年5月にマスコットを引退した。
2003年
ジャック(ブルドッグ)
  Scott Pilarz S.J. から新たなマスコット探しと世話を引き継いだのは、当時、神学部の教授であった Fr. Steck S.J. だった。彼は、前回のキャンペーンの残金と、校長・ Hoya Hoop Club ・ Hoop Club のメンバーの Bob Hohmannからの新たな寄付で、12週齢の新しいジャックを迎えた。

 2003年の5月3日生まれ、同年の7月19日に大学へやってきた。
 前任のジャックとは、血のつながりはないが、ユーイングの頃のマスコット、ロッキーと同じ血筋である。
2012年
ジャック Jr.(ブルドッグ)
 2012年の4月に、カリフォルニアからやってきた。ジャック Jr. を略して J.J. とも呼ばれる。



これからも、現地アメリカのバスケットボールや文化・習慣などを、お伝えできるよう更新していきたいと思いますので、今後ともご覧いただければ幸いです(2012年 9月30日)。

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